はっきりとさよならは言わなかった。でも、あの日オレは彼女にさよならをしたんだ。
――――オレの中の、彼女への、ある一つの感情に対して。


こ こ は き っ と 別 れ の 荒 野


「ねぇ、卒業したら外国に行っちゃうって、本当?」

冬も終わりに近くなってきた日だった。もうすぐお別れをする馴染みの校舎の屋上で、まだ肌寒い空気も気にせずに、互いの思い出を語り合っていた時だった。
会話の延長みたいに然り気無さを装って、でもどこか不安げに尋ねた少女に、少年は微かに苦笑してみせる。

「うん…なんか、そんなことになっちゃってる。」

自分のことなのにどこか他人事を語るようなその言い方に、なんだかへんなの。と少女も苦笑を返す。(肩の震えは笑ったせいにして。)
少年の友人達や少女の兄も少年と共に行くらしい。少女が人伝に聞いたことはとても少かったけれど、それが単なる留学ではないことはわかった。
きっと訳があるのだろう、そしてそれを自分には話してくれないのだろうと、自分が着いて行くことも無理なのだろうと、聡い少女は気付けてしまったから。聞きたいことも言いたいことも、一切口に出すことはできないまま、他愛のない会話に想いを混じらせる。


いつまで向こうにいるの。
――――さあ、わからないなぁ。

(さみしいよ)

時々は帰ってくるよね。
――――…たぶん、うん、きっと。

(あのね、わたしほんとは、)

あ!手紙書くね、新しい学校のこととか、楽しいこと嬉しいこと、たくさん書くよ!

(…いっしょに、)

――――ありがとう、オレもきっと出すから、…きっと!絶対!
ふふっ、さっきから“きっと”ばっかりだね。
――――あれ…そう、かな?ははっ

(いたい、よ)



「京子ちゃん。あのね、―――――――。」

最後に少年が言った小さなちいさな呟きは、少女の耳に辿り着く前に突如吹いた風が攫っていってしまった。
少女が聞き返そうとするよりはやく、少年は微笑わらって、

「じゃあ、またあした!」

その笑顔に、もう何も言えなくて。 少女はさよならと手を振ることしかできない。
――――少年は、振り返らなかった。


(ありがとう、)( き み が す き だ っ た )



…風は通るくせに、靡くことを許さない。
ツナ→←京
中三の冬。京子への想いを諦めた綱吉と自覚したころにはもう終ってしまっていた京子。





*****





お別れの日、結局連絡先は教えてもらえなくて、でも、落ち着いたら必ず連絡するからと、彼はそう約束してくれたから。
だから私はそれを信じて待ち続けて…そして、彼とみんながこの街を出ていって、季節がふたつ過ぎたころ。…約束通り、彼からの手紙が届いたの。


i f の 群 れ が 包 囲 す る


お元気ですか?…そうお決まりのフレーズからはじまったあたりさわりのない手紙。その内容の殆んどはこちらの様子を聞くもので、送り主自身のことはあまり触れられていない。

『私は元気です。そちらの生活にはもう慣れましたか…』

迷って結局、少女もどこででも見かけるようなそんな書き出しからはじめて、とりとめもない日常のことを報告するだけの手紙を返すことにした。
本当は、少年自身のことをもっとたくさん訪ねたかったのだけれど、書かなかった。…書けなかった。
それはしてはいけないことなのだと、わかっていたから。(それは既に、あの屋上でのやりとりで思い知らされていた。)
同じくらいに届いた兄からの手紙に、
『毎日極限元気だぞ!まわりのやつらも変わりない!』
そう書かれているのを読んで、こちらに居た頃のように明るく楽しく過ごしているのだろうと、そっと笑みを浮かべる。実直で嘘が苦手な兄だから、きっとこれは本当。
遠い海の向こうの国でも、彼はきっと今日も笑えている。――――周囲のみんなに囲まれて。

「…、っ」

みんなの中心で楽しそうに笑う少年が少女は一番好きで、だからそれは喜ばしいことのはずなのに――――どうしてこんなにも、胸が苦しいの?
ぎゅうっ、込み上げてくる衝動を目蓋をきつくきつく閉じてやりすごす。あの日に少女は、けして泣かないと決めた。
笑っていて、と彼が言ったから。
風に攫われた音の無い声で、でも、きみはここで笑っていてと微笑まれたから。
そして望まれ通りにした少女にはもう、この場所で笑って、この場所で彼の手紙を待って――この場所から彼を想う、それしか許されていない。

(笑っている。)(でも、こころはあなたをおもってないている)

あの時、自分はどうすれば良かったというのか。
泣いてすがれば良かった?それとも酷いと詰る?…たとえNOしか返されずとも想いを告げていれば、これほどに苦しくはなかったろうか。
あの冬の空の下、もしも少女が好きと言ったなら…おそらく少年も好きだと言ってくれただろう。(それは偽りでも何でもなく彼の本当の気持ち。)(でもその「好き」は、恋、よりもずっと遠くて高い、手の届かないところのそれに変わってしまった。)
少女の想いと同じだけの「好き」は彼から返ってこない。
…以前はきっと少女も少年も同じだけの重さで同じものを持っていた(それは少女がまだ無知だったころ)、でも――いつからか違がってしまった。
既に彼は線引きをしてしまった。
この想いはきっともう叶わない。

――――それにもう、あの頃の少女はどこにも存在しないのだ。

鏡に写る少女の姿はあの頃とは違う。制服はブレザーからセーラーに変わったし、髪も少し伸びた。半年前よりスラリと伸びた手足に女性らしい丸みを帯びた身体。
鏡の向こうに立つのは“並盛高校一年生”の笹川京子。
記憶のなかの変わらない少年が、鏡越しの変わってしまった少女が、もう戻れない時間を突きつけてくるようだった。
それでも、過去以外どこにも行けない想いを懐いて、まだ少女は思考の迷路に続く扉の前に踞っている。



…扉が道を塞いで、鏡が私を竦ませる。
ツナ←京
日本からイタリアへ行った綱吉を想う京子。まだ昇華できない恋心。